2018年06月02日

ピーターセン氏の最新書

マーク・ピーターセン氏の新著「英語のこころ」を読んでいます。

日本語と英語の違いを深い考察により、提示しています。夏目漱石の「こころ」の原文とその英訳を比較した章があります。

たとえば、

友達は急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断っていたけれど友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧まない結婚を強いられた」

と「友達」の繰り返しが英語ネイティブのピーターセン氏から見ると、気になるとのこと。さらには、

「彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外に、ここで海水着を洗濯させたり、ここでしおはゆい身体を清めたり、ここへ帽子や傘を預けたりするのである。」



ピーターセン氏はこの箇所を

「ここでの『ここ』の繰り返しは、漱石が何らかの効果を狙った意図的なものなのかもしれないが、それは私にははっきりとは判断できない。また、意図的だったと言われても、それで成功したかどうかはなおさら判断がつかない。」

と書きます。

下線部「私には」という語の前には「ネイティブではない」という言葉が省略されているようです。しかし、日本語ネイティブである私にも、はっきりとは判断できません。これほどまでに、同じ言葉を繰り返すのは日本語でも珍しいので、故意に行なっているのかなという気がしますし、リズムもいいので、成功しているとも思うのですが、文豪の書いた文を分析したり、評価したりする資格は私にはないと思ってしまいます。漱石の小説など、高校の教科書で「こころ」のほんの一部を読んだのと、中学校のときだったか「吾輩は猫である」を読んだくらいで、きっと、大学院で近代日本文学を専攻したピーターセン氏のほうがはるかに読み込んでいることと想像できます。それを考えれば、ネイティブの感覚なんて、あてにならないのかもなあと思ったりもします。

ふだん、この英単語の語感はどうなんだろう?というようなネイティブではないことから来る感覚のなさを実感させられますが、ひょっとすると、ネイティブだって、よくわかっていない人が多いってこともあるのかな、なんて思ったりしました。

この漱石の例は、文学であって、話し言葉とは全然状況が異なりますが・・・



posted by Monterey at 20:19| Comment(0) | 英語学習日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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